【プロローグ】
それは、ある日の夕暮れ時―――
キッチンは 私にとって
いまや 引き算スタイルの場所
料理は好きだけれど
もはや「主戦場」ではなく
家族の健康を守るための
聖域でありながらも
同時に家事をサボる
罪悪感を抱かない程度の
家事解放区でも
ありたいと思っていました
世間が言う
「丁寧な暮らし」とは程遠くても
私は私なりに手を変え品を変え
五味調和の栄養バランスを考えながら歩んできました
新鮮な野菜をそれなりに洗い
お皿にざっくり盛り付け
マヨネーズやドレッシングの力を借りて彩りを添える
白米に合うタンパク質のおかずを
煮たり 焼いたり
時には電子レンジの力を借りながら手際よく仕立て上げる
週末に準備しておいた油揚げや海藻
冷凍野菜をだし汁の張った鍋にざっと滑り込ませ
少し良い品質の味噌を溶き入れる――
それっぽく愛情を込めて
適当に完成させてきた日々の食卓
それこそが
令和の時代にあっても
なお 私の中に深く根付いていた
「昭和の良妻賢母」的な
女のプライドだったのです
しかしその日
運命の歯車はあまりにも理不尽な形で狂い始めました
その日のメニューは
少し遊び心を取り入れた「パリパリ食感のチップスサラダ」
チキンの塩麹焼き
お味噌汁に炊き立てのご飯
戴いた新鮮なトマト
そして冷奴をどかんと置いて
終了の予定でした
まずは 千切りキャベツにヨーグルトと塩コショウ
マヨネーズを合わせたアバウトなソースを絡め
アクセントとして夫が買ってきた
ポテトチップスを袋ごと粉々に砕き
混ぜ合わせていく
家族全員に好評なメニュー
久々のチップスサラダに
小さな歓声を期待していたその瞬間――
リビングの空気を引き裂くような
地鳴りのごとき罵声が響きました
「俺が買ってきたポテチを
全部使いやがって!!」
その場で凍りついた私は 立ち尽くすしかありませんでした
目の前で怒り狂う夫の姿は
まるで言葉の暴力を振りかざす
暴君のよう
あまりにも突然で あまりにも不条理な言いがかりでした
「なんで……どうして?」
たかがポテチ一袋でそんなに怒ることがあるのでしょうか
夫が購入してきたものを家族が食べてはいけないのでしょうか
キッチンに置いてある時点で
それはもう家族のものではないのでしょうか
家族のために作る食卓の一部に使っただけでどうして怒号が飛ぶのでしょう
夫は 食べ物に対する執着心のようなものがあり
賞味期限切れで捨てたものに対して
「あの○○どうした?」と詰め寄ることもありました
冷蔵庫の中のものがいつの間にかなくなることを気にするタイプで
神経質なのか オトナゲないのか 重箱の隅をつつくような
小姑的な思考がここ数年 私には面倒くさく思えていました
食べ物に関する小さな衝突は夫婦喧嘩の火種になることが時々ありました
妻とは 母とは
一般的に献身的に身を粉にして
家族のために尽くす存在だと言われます
ショウワに生まれ 平成を渡り
令和に生きていたこの社会の中で
例え虐げられる日があったとしても
感情が抑圧され
辛い日々があったとしても
それでもなお
きっと私のようなオンナたちは
愛想よく
家庭を運営・管理をしてきたのです
しかも、無償で…
一袋のお菓子ごときで家庭内で責め立てられるようでは
到底身が持ちません
夫が購入した物品を使用する際には
わざわざお伺いを立て
丁重に使用許可を申請しなければならないのでしょうか
まるで四面楚歌
怒号によって踏みにじられたその日のキッチンでの時間
リアルで理不尽で胸が締め付けられるような
ある日の出来事――。
キッチンという名の 私を縛り付けていた小さなエリアが
崩壊し始めたのは この日からでした
そして その涙の奥で
私の中の「何か」が
パチンと音を立てて弾け飛んだのです
「もう、やめよう」
この理不尽な雨を浴び続ける必要はない
私は 私を縛り付ける
「夕食作り」という名の
目に見えない鎖を
その日 自らの手で断ち切りました
【反撃】
私はすべてをボイコット
2日間の家出で見えた
「果てしなき違和感」の正体
言葉の暴力を浴びせられた次の日の朝
私の中に宿ったのは
従順な妻の涙ではなく
静かに燃え上がる怒りの炎でした
私は動きました
これまで管理運用してきた
家庭という歯車を
自らの手で力任せに止めたのです
朝食の用意 お弁当の準備
そしてもちろん
あの忌まわしき夕食の支度
そのすべてをボイコットし
私は必要最低限の荷物を掴んで家を飛び出しました
2日間の家出
それは 私にとって
「命がけの反乱」であり
自分の尊厳を取り戻すための
乾坤一擲の勝負でした
今 まだ家に帰るべきか
帰らざるべきか・・・
私の足は宙に浮いたままです
ビジネスホテルの一室
あるいは見慣れぬ街のカフェで
この文章を書きながら
私の心を満たしているのは
かつて感じたことのないほどの
「冷徹な違和感」でした
家族と 夫と
物理的な距離を置いたことで
かえって精神的な距離が
宇宙の果てほども 遠く離れている
事実に気づかされたのです
私がいない我が家で
夫は何を思っているのでしょう
自分の理不尽さに気づいてくれたのか
それともまだ
怒り狂っているのでしょうか
そして子供たちは――
暗闇の中で 答えのない問いが頭を巡ります
しかし 激しい絶望のあとに
私の中に一つの「光」が差し込みました
私はもう
元の「都合のいい妻」
「24時間営業の母」
には戻れないし 戻りません
これから私がすべきなのは
夫の機嫌を伺うことでも
家族の顔色を読んですり減ることでもありません
この果てしない違和感を
私自身の「自立」へのエネルギーに変えること
これからの人生をどう解決していくか
その舵を
夫ではなく「私自身」が握り直すこと
オンナの 本当の自立です
まだ今日家に帰るかはわからないけれど
私は私の足で
自分の未来へ向かって歩き出しています
この家出は終わりではなく
私が「キャリア迷子」を脱出し
私だけの人生を生き直すための
聖なる始まりなのかもしれません